個人 | 団体(20人以上) | |
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一般 | 750円 | 600円 |
静岡市内居住 70歳以上の方 高校生・大学生 |
520円 | 410円 |
小学生・中学生 | 180円 | 150円 |
未就学児、静岡市内居住・通学の小学生・中学生は無料 |
明治より多くの政治家や財界人が別荘を構えた静岡のリゾート、興津・横砂。中でも明治維新政権の元勲井上馨は横砂に長者荘を、首相で元老の西園寺公望は興津に坐漁荘を構え、晩年を過ごしました。井上馨所用の品々や、西園寺公望および別荘旅館水口屋に関わる資料から、別荘の地の歴史をひもときます。
絵葉書「興津旅館一碧楼水口屋の遠望(清見潟海岸)」
(静岡市立中央図書館所蔵)
駿河湾に向かって干潟が広がる興津の風景は古くから、訪れる人々を魅了してきました。近世後期には興津は、東海道の宿を描いた多色刷の摺絵に必ず現れ、清見潟の海岸線が描かれました。近代に入ってからも観光名所案内にその風景が紹介され、清見潟は海水浴でにぎわいました。現在、干潟はなくなっていますが、古写真から清見潟のようすをしのぶことができます。
長者荘(『世外井上公伝』国立国会図書館
デジタルコレクションより)
井上馨(1835~1915年)は、長州藩士の出身で明治維新に功労があり、政治の実務に長け、長い期間にわたって政府の大臣を歴任しました。井上は明治29(1896)年、横砂の地に5万坪もの広大な敷地を得て、長者荘とよばれる別荘を建てました。「世外」と号し、晩年をこの別荘で過ごしました。井上は長者荘を訪れる人々と交流し、地域の人びとに大きな影響を及ぼしました。
スタットラー『JAPANESE INN』にみえる水口屋
(静岡市歴史博物館所蔵)
江戸時代に、興津の脇本陣であった水口屋は、明治に入ると別荘旅館を経営、政治家、財界人、皇族、作家、画家が数多く訪れました。また清見潟で海水浴場の営業も行いました。戦後には占領軍の一員であったスタットラーが訪れ、その著書で水口屋をアメリカに紹介しています。
海辺からみた坐漁荘(個人蔵)
西園寺公望(1849~1940年)は、京都の公家に生まれ、西園寺家を継ぎました。自由主義的な思想を身に着け、明治後期に政党の勢力が強まると立憲政友会の総裁となり、「桂園時代」には首相を2度つとめました。その後も元老として政界に重きをなし、昭和の軍部勢力に批判的な姿勢を貫きました。大正8(1919)年、興津に坐漁荘を建て、晩年を過ごし、ここで亡くなりました。
静岡市埋蔵文化財センターは、明治時代の元老井上馨の別邸「長者荘」の跡地に建っています。静岡市内の遺跡から出土した遺物の整理・管理・公開を行い、一般の人も展示を見ることができます。
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西園寺公望の別荘坐漁荘を、その故地に忠実に復元した建物です。西園寺ゆかりの品なども展示しています。
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清見寺は、東海道の関所である清見関の関寺であったといわれる禅宗寺院で、江戸時代には朝鮮通信使も宿泊しました。
この碑は、大正天皇(当時皇太子)が海水浴を楽しんだことを記念して建てられました。今から60年くらい前までは、海岸線がこの辺りにありました。
水口屋ギャラリー(フェルケール博物館別館)は、もとは一碧楼水口屋という別荘旅館です。現在はギャラリーとして水口屋を訪れた人々の品々を展示しています。
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俳人の正岡子規は、明治33(1900)年に興津に移住しようと考えたことがありましたが、その願いは果たされることなく、2年後の明治35(1902)年にその生涯を終えます。
明治時代、興津出身の北川勇作と内藤幾太郎は、和菓子に欠かすことのできない餡子を大量に作る機械を考案しました。また、後進の育成にも尽力し、製餡技術が全国に広がった結果、より多くの人が餡子を使った和菓子を味わうことができるようになりました。後年、静岡市清水区承元寺町に北川勇作と内藤幾太郎の貢献を讃えた記念碑が建立されました。
北川勇作の功績を讃えた記念碑
内藤幾太郎の功績を讃えた記念碑
※専用駐車場はございません
※観覧チケットのオンライン購入も可能です。詳細は購入サイト内を確認ください。
※当日を含む2週間分の購入ができます。(販売初日は10:00販売開始)