※基本展示もあわせてご覧いただけます。
※20人以上は団体料金あり。
※障害者手帳の提示で介助者1人まで無料。
※「一般」以外の方は身分証明証等をご提示ください。
「海道一の弓取り」と名高い今川義元は、ここ静岡を基盤にその勢力を拡大し、全国でも屈指の戦国大名に成長するとともに今川氏の全盛期を確立しました。義元が手掛けた様々な政策や事業の根底には、時の運、確固たる地盤、優秀な家臣たちの支えがありました。義元が静岡の地で得た「天・地・人」をひもとき、その功績を濃密に紹介します。静岡の博物館ならではの「義元」展を目指します。
今川氏は室町幕府を開いた足利将軍家の一族です。初代将軍尊氏のころ活躍した今川範国が駿河守護に任命されると、志太・静岡平野を本拠に、いまの静岡県中部一帯へ影響力を広げていきます。およそ200年後、8代氏親は遠江(静岡県西部)を平定。独自の領国法など先進的な支配制度を整え、将軍の力に頼らない「戦国大名」へと進化します。義元はその氏親の子として生まれ、やがて隣国三河(愛知県東部)まで制圧して今川氏の全盛期を築くことになります。
今川氏親の子として誕生。幼名芳菊丸。
善得寺(富士市)に入り仏道に進む。
兄氏輝らが死去。
家督を巡り兄弟の玄広恵探と争って勝利(花蔵の乱)。
10代目の今川家当主に。
今川義元木像(新定院所蔵)
「河東一乱」は、義元にとって人生最大の危機でした。長年争っていた武田と結んだことで北条と激しく対立、領国の東から本格的な侵攻を受け、さらに西の遠江・三河一帯でも、北条に扇動された家臣らが反乱を起こします。義元は、従う家臣に一致団結を促しながら、武田氏や、北条と対立する関東の諸氏らと連携して反撃、ついに駿河東部を取り戻しました。この和睦は、その後の武田・北条との三国同盟につながっていきます。
甲斐武田氏との同盟により北条氏と対立。
大規模な侵攻で駿河東部を失う (第一次河東一乱)。
北条氏と再び交戦(第二次河東一乱)。
駿河東部を奪還して和睦する。
松井貞宗宛て今川義元書状写(臨済寺所蔵)
駿河・遠江を安定させた義元は本腰を入れて三河へ進出し、最大勢力の岡崎・松平氏の取り込みを巡って尾張(愛知県西部)の織田信秀と衝突します。抗争の末、松平の当主竹千代を駿府に迎え、三河支配の主導権を確立。義元は自国の法律をさらに整備し、武田、北条との関係も安定させて、今川領を全国屈指の強国に成熟させます。
三河・小豆坂の戦いで織田信秀に勝利。
松平竹千代を駿府に引き取る。
今川仮名目録追加、今川家訴訟条目を制定。
武田信玄・北条氏康と同盟(甲相駿三国同盟)。
氏真に今川家当主を譲る。
朝比奈信置薙刀(写/一乗寺所蔵)
織田信秀が病没すると、織田家は内紛などで混乱し、義元の影響力が尾張南部に浸透します。海沿いの鳴海(名古屋市緑区)などの勢力が相次いで投降し、義元は尾張と伊勢湾に進出する好機を得ました。一方、家中をまとめた織田信長は、尾張統一を目指して鳴海一帯に侵攻。義元は周到な準備で出陣しますが、桶狭間の合戦で討たれ、彼の戦国大名の道は突然終わりを迎えました。
尾張南部へ出陣。織田信長に敗れて討死。
桶狭間今川義元血戦(当館所蔵)
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