※( )内は20人以上の団体料金
※基本展示もあわせてご覧いただけます。
※障害者手帳の提示で介助者1人まで無料。
※「一般」以外の方は身分証明証等をご提示ください。
※未就学児、静岡市内在住・通学の小中学生は無料。
駿河国古絵図(静岡市所蔵/部分)
明治時代以前の絵地図には、「江尻」と「清水」が別々のまちとして描かれています。江戸と京都を結ぶハイウェイ「東海道」で多くの人々が行き交う江尻宿。巴川の川湊として、江戸と上方、甲州とも水運でつながった清水町。隣り合いながら異なる性格の「双子のまち」が、やがて発展していく清水の礎になりました。
宿内麁絵図面(静岡市立清水中央図書館所蔵)
江尻は、一帯の中心的な宿場町として栄えました。東海道を行き交う大名行列や旅人が泊まる宿、公用の荷物を送る伝馬の拠点、朝鮮通信使の宿泊所となったことも。明治22(1889)年に開通した東海道線も、江尻に駅を置きました。
絵葉書「東海道五十三次之内 江尻」
(年代不明 近代/静岡市所蔵)
昭和44(1969)年の清水銀座
(旧江尻宿付近/個人蔵)
歌川国綱 東海道(御上洛) 江尻 (静岡市所蔵)
武田氏との内通を疑われて自害した徳川家康の嫡男、信康の遺髪を埋めたとされる五輪塔が残ります。関ケ原の合戦に向かう家康がこの寺を訪れたといわれます。
家康の命で巴川に架橋されると、橋渡りの式典に川から童子が現れて先頭を歩いたという伝説が残ります。人々は河童の化身だとして橋の名を「稚児橋」としたそうです。
戦国時代、今川氏を破って駿河に入った武田氏は、駿府より江尻を重視して、ここに拠点の城を築きました。城跡の小学校に城址碑があります。また、ここに日本初の少年サッカーチームができたことを記念して、城の護りとされた魚町稲荷神社にサッカーボールの碑が建てられています。
清水町絵図(静岡市立清水中央図書館所蔵)
清水は、巴川の河口右岸にひらけた川湊。江戸時代には、大消費地の駿府を控えた物資の出入口として発展します。幕末の大地震で河口一帯が隆起して船が出入りしにくくなると、港は海沿いに移ります。それが、巨大港への発展の第一歩でした。
江戸時代の海運に使われた千石船
(「駿国雑志 巻十四」より 清水湊千石積大廻船の図/
静岡県立中央図書館所蔵)
現在の巴川河口付近
江戸時代、富士川で運ばれた信州、甲州の年貢米は、清水に集められてから江戸へ運ばれました。碑のそばに、いまも山梨県の飛び地が残ります。
明治19年に次郎長が開いた船宿を復元。港の振興や各地の開墾など、晩年の次郎長が精力を注いだ事業などを紹介しています。月曜休館。無料。
品川沖を脱出した旧幕府軍の咸臨丸は、嵐で損傷して港に入ったところを攻撃され、全乗員が戦死しました。逆賊として海上に放置されていた遺体を、次郎長が毅然と収容し、埋葬したと伝わります。
埠頭まで伸びていた鉄道。
荷揚げ用テルファーは現存(昭和59年/個人蔵)
海にひらけ、外国ともつながった清水港。茶の運搬のため、静岡市街と結ぶ現在の静岡鉄道が敷かれ、東海道線から支線も伸びました。鉄道開通と港の拡大にともない、性格の異なる2つのまち、江尻と清水はひとつの町になっていきます。
大正時代以降、鉄道や大型船で大都市や海外との交流を格段にひろげた清水は、観光地や政治家らの別荘地としてもにぎわいました。
左/絵葉書「興津旅館一碧楼水口屋の遠望(清見潟海岸)」
(静岡市立中央図書館所蔵)
右/鶴(田中光顕 下賜/静岡市所蔵)
清水港附近案内地図(静岡市立中央図書館所蔵/部分)
昭和3年建設の国登録有形文化財。船から鉄道の貨車へ、材木を積み込むために使われていました。同様の施設が現存するのは清水港だけです。
静岡市歴史博物館では混雑緩和のため、展示室の観覧について、日時指定予約(Web予約)を推奨しています。
※当日を含む2週間分の予約ができます。(販売初日は10:00予約開始)
※Web予約が困難な方向けに当日枠もご用意しておりますが、
枠に限りがあるためご案内可能な時間までお待ちいただくこともございます。
※観覧チケットのオンライン購入も可能です。詳細は予約サイト内を確認ください。
※観覧料が無料となる方や招待券等をお持ちの方も「日時指定券」のみご予約いただけます。
巴川河口の川湊・清水は、モノが行き交う「水の道」の拠点として、街道筋とは違った人のつながり、交流を生み出してきました。その歴史を語る上で欠かせない次郎長の存在と、現在の巨大港・清水への発展を方向付けた清水湊の歴史的役割を考えます。
戦国時代の終わりごろ、清水区江尻には城があり、駿河を治めるための拠点とされていました。清水郷土史研究会と連携し、往年の江尻城の姿と役割を偲びます。